「それは見てからのお楽しみです」
「で、どうするの?」
 アールセキンの台詞をあっさり無視して、少女は問い返す。
 先ほどの戦いの時に感じた恐怖はもうない。怖くないならば、条件は対等だ。
 少女は物怖じしない口調でアールセキンに尋ねた。
「せっかちな人ですね。とりあえず、あるものさえ探し出せれば一発なんですけど」
「あるものってなに?それって、どこにあるの?」
 速射砲のような勢いで次々に問いを浴びせかける。
「それをこれから探しに行くんですよ。と言うわけで、ここでお別れです。命があれば、またいずれお会いしましょう」
 アールセキンは少女の方を向いて、軽く一礼するとそのまま走り出そうとした。
 が、少女はそれを許さなかった。走り去ろうとするアールセキンの背後から、スーツの裾を掴み思いっきり引っ張る。
「と、なんなんですか?」
「あたしも連れてって。面白そうだから」
 首だけで少女の方を向き沈黙。冷たく鋭いアールセキンの瞳で見つめられると、それだけで刃でも向けられているような錯覚に陥る。
 だが、少女はまだひるまない。
「ダメ?」
 沈黙を破るため、少女はやや上目遣いでアールセキンに問い掛ける
 と、アールセキンはその少女に向けてかすかで曖昧な笑みを浮かべた。
「お嬢さん、名前は?」
「え?あ、あたし?あたしはレイン・シューター。でもなんで、いまさら名前なんか?」
「やはり、相方の名前ぐらいは知っておきませんと。私はリチャ−ド・アールセキンと申します。気軽にアルとお呼びください」
 そう言って、アールセキンは再び軽い笑みを浮かべた。
 『相方』の一言にレインの顔がほころぶ。
「じゃあ、ついてっていいの?」
「ええ。ですが、今はほのぼのしゃべっている暇はありません。急ぎますよ」
 言うが早いか、アールセキンが走った。
 レインは慌ててアールセキンのスーツの裾を掴んだ。
 息もできないほどの加速に戸惑いながら、レインは必死で裾にしがみつく。疾風が全身を包み込み、頬を、髪を風がくすぐる。
 あまりの速さに常人の目では周囲の景色さえ認識できない。
 あるのは圧倒的な速さと撒く風のみ。
 レインは、まるで風そのものにしがみついているとしか言いようのない奇妙な感覚。
 蒼き風をその身に纏い、長距離走者が苦痛の果てに辿り着くと言う神の領域へと……。
「って、飛ばしすぎ〜!!!」
 レインの絶叫に反応して、やっとアールセキンが振り向く。
 だが、速度は落さない。止まる事を知らない疾風のごとく、目にも止まらぬ速さで人ごみの中を駆け抜ける。
 これは、いつ何にぶつかってもおかしくない状況だ。
「何か?」
 アールセキンは顔だけをレインに向けて問いかける。
 だが、レインはそれどころではなかった。
 後ろを向いているせいでアールセキンは気づいていないようだが、すぐそこに大きなレンガの壁が迫っているのだ。
「いいから、前見て〜!!!」
 レインの言葉を理解したのか、壁の手前ぎりぎりの所でアールセキンの身体ががくんと前へ沈みこんで、ブレーキをかけた。
 だが、超常識的な加速を続けてきたアールセキンの身体は慣性に従い、ひたすら前へ進もうとする。
 レインは反射的に目を閉じる。
 すると、予想もしなかったような事態、即ち奇妙な浮遊感が彼女を包んだ。
「な・なに?」
 驚きが怯えの感城を上回り彼女はゆっくりと目を開く。
 見れば、眼下に広大な海とレイテが広がっていた。
(飛んだ?いや、跳んだの?)
 事態を理解しきれないまま、レインは空に浮かんでいた。
「どうです、気持ちいいでしょう?」
 アールセキンが愉快そうに言いながら、先ほどまでスーツの裾を掴んでいたレインにそっと手を差し伸べる。
 レインが差し伸べられた手を握り返すと、アールセキンはそのままぐいっと自分のほうに引き寄せ、両腕で抱きかかえる。
 そして、そのまま重力に任せて立ち並ぶ屋根のうちの一つに華麗な動きで着地。
 アールセキンはなにが面白いのか、かすかに笑みを浮かべている。
「あ・あの、もう大丈夫ですから」
 レインはふと、アールセキンに思いっきり抱きかかえられている、自分の今の状況に気づき、慌てて降りようとした。
「暴れると、危ないですよ」
 アールセキンはレインをやさしげな手つきで屋根の上に降ろすと、そこから船の全体の様子を眺め回した。そのかたわらで、レインは驚きで目を白黒させている。
(私がくっついている状態で10m、いや20mは跳んでる。やっぱりすごいわ、この男)
 そう思いながら、どうやら何かを探しているらしいアールセキンに視線を向け、感心の眼差しで見上げる。
 強い潮風の中、ともすれば乱れがちになる金髪を片手で押さえながら、アールセキンは船の先端に広がる海を見つめている。
 レインは自分もその視線の先に目を向けた。
 今、世界に存在するそれとは明らかに違う、1点の曇りも持たぬ澄みきった蒼。ゲームのプログラム上でのみ生み出しうる、現実よりも美しい世界。
 千万の、億兆の、記号の配列が織り成す幻想的なその光景は、観察者をもそのうちに取りこんで一つの完結した世界を作り出す。
 目の前に広がるそれは、まさに電子の海だ。
「やはり、地道に探すしかなさそうですね」
 アールセキンのその言葉に、ぼんやりして海の蒼さに見惚れていたレインは、はっと我にかえった。
「行きます?」
 ええ、頷いてレインの手を引くと、アールセキンは彼女を再び抱き上げた。
 こればかりはどうにも慣れる事ができず、レインは恥ずかしげに頬を染めた。
「少し揺れますので、ご注意ください」
 タンッという踏み切り音。
 そして、アールセキンは6mほどの屋根から、こともなげに飛び降りた。
 レインを抱えたままの状態で、両足の膝だけで衝撃を逃がして着地。
 家の下はちょっとした広場になっていて露店などが並んでいる。
 そこに集まっていた人々は空からの突然の闖入者に、一体どう反応してよいのかわからず、そこかしこでざわめきがおこった。アールセキンはそんな周囲を取り囲みながら、ざわめく人々を一瞥すると、人垣を軽く飛び越え、高速で広場の向こうへと駆け抜ける。
 地を蹴り、さらなる加速をつけてアールセキンは前へと突き進む。
 レインは腕の中から滑り落ちないように、自分を抱き上げているアールセキンの袖をぎゅっと握った。
 レインは元々、この風の中を駆け抜ける感覚は嫌いではない。
 信じられぬほどの速さが、それに乗る者に与える愉悦は全身が震えるほどの快感だ。
 最初はその感覚に慌てていたが、一旦慣れてしまえば、むしろこの状況に身を任せる事が心地よくさえある。
 そんなレインの思いとは関係なく、アールセキンはある物を探し出すために、この巨大な艦内を縦横無尽に駆け巡る。
 大通りを突っ切り、路地裏を抜け、建ち並ぶ露店の前を一瞬にして通りすぎ、アールセキンはなお、前へと向かう。
 やがて、無規則だった彼の疾走に、一つの指向性が生まれた。
 常に、吹きぬける風向かって進む。
 それは即ち、船の進行方向に向かう事を意味している。
 潮風に対して逆走し、アールセキンは艦の先端へと向かった。
 大通りから脇へ入り、再び別の道へ。あみだでもするかのように、右へ左へと曲がりながら、裏道から表通りへ、そして大きなビルの脇を通って、細い横道を抜けると、あまりに唐突に、海が広がる。
「ここは?」
「船首ですよ」
 アールセキンは答えながら、さらに船の先へと向かう。
 そして、船の舳先のぎりぎりのところで立ち止まった。
 アールセキンが立ち止まったそこには、なにやら不恰好な金属製の箱が置いてあった。
一辺40cmほどの直方体。それぞれの面にはメタリックな金属板が張り合わされており一見しただけではなんに使うものなのか判別がつかない。
「探してた物ってこれ?」
 レインがその鉄の箱を指差すと、アールセキンはこくりと頷いた。
「ええ、一見ただの鉄箱ですが、中身は超高性能プログラムの塊ですよ。主に、小人さんがひっきりなしに働いています」
「で、なにする道具なの?」
「せめて、突っ込み入れてくれないと面白みが」
「で、なに?」
「わかりました。説明いたしましょう。多少長いですが」
 アールセキンはしぶしぶの割には、やたらと大仰な身振りで説明をはじめた。
「ハッカーにとって最大の敵はなんなのか?それは言うまでのなくカロンです。昔からハッカーはこのカロンからいかにして逃れるか、苦心していたようです」
「そうよね。私はアイテムだけだからいいけど。外見データ変えてる人なんかどうするのかしら?」
「カロンを倒す方法は今のところ発見されていません。ですから、カロンに対してできる事はたった二つです。一つは、逃げること。そして、もう一つは」
 アールセキンは一旦言葉を切る。彼のこの演出がかった語りは最高潮を迎えていた。
「気づかれないことです。これはその『気づかれない事』という命題にたいする一つの答えなのでしょうね」
 言いながら、こつこつと鉄箱の上部を叩く。
 単純なその動きにも、どことなく優雅さが漂っている。
「それって、どう言う事?」
「この艦上にはこれと同じ物体が後3つあるはずです。そして、それで囲まれた範囲は完全にカロンの認識外になってしまうのです」
「どう言う……意味?」
 アールセキンが言わんとしている事をなんとなく理解したレインは、自分の考えの正しさを確かめるためにさらに問いかけた。
「カロンはこれで囲まれた範囲を何もないと勘違いして、通りすぎてしまうのです。通称ブラインド。彼らが開発した違法アプリの中でも最高傑作の一つです。」
「じゃあ、これを叩き壊せば、カロンがかけつけて一巻の終わり?」
「そう、簡単に事が運ぶとも思いませんが」
 言いながら、アールセキンは後ろを振り向き、続けて
「そのつもりなんでしょう、皆さん?」
と言った。
 すると、アールセキンの後方10数mほど先に立ち並ぶ倉庫屋根や、そのかたわらに積み上げられた大型のコンテナの裏から何人もの人間が姿をあらわした。
 見える範囲にいる人数だけでも、相当な数だ。遠目でも見ても、彼らの瞳にアールセキン達に対する敵意が宿っているのがわかる。
 レインは自分たちに向けられた無数のそれに身をすくませた。
 数というものは一定量以上になると、それが『存在する』ということだけで、人を圧倒する力を持ち始める。ゆえに個人は組織には勝てない。それが、たとえどれほど己に自信があり、強大な力を持ちうる個人であったとしてもだ。
 もし、それでもなお、臆せずに世界に向かって一人で立つ事ができる者がいるとすれば、それこそが強さと呼ばれるものの正体なのであろう。
 アールセキンはかすかに薄ら笑いを浮かべた。ギリギリの所に追い詰められたやけっぱちからでも、なんの裏打ちもないただ虚勢からでもない、本物の笑みを。
 二人のほぼ正面にある男たちの壁が二つに割れ、その間から一人の男がこちらに向かってつかつかと靴音を立てながら、歩いてきた。
 それはずいぶんと奇妙な姿の男だった。
 RPGによくある神官服ではなく、実在の神父が着るような襟の立った長めの裾の服を着、首からは太陽光を反射して輝く銀色のロザリオを下げ、片手には大きめの辞書らしきもの、おそらくは聖書であろう、を持っている。
 それだけなら、普通の神父と大差ないのだが、奇妙なのはその服の色だ。
 緑。
 それもただの緑ではない。濃緑色と黄緑、それに黒がマーブルに交じり合い、ちょうど米軍が着ているような迷彩色を作っているのだ。
 馬鹿みたいにニコニコと笑顔を浮かべながらアールセキンの前で立ち止まると、男は軽く頭を下げておじぎをした。
「はじめまして。僕はステ―シー・グランス。『龍牙』の最高幹部です。それから、もうお気づきでしょうが、後ろに控えている彼らは『龍牙』の構成員です。我々『龍牙』を代表して、僕が代わりにご挨拶を申し上げます」
 ステ―シーと名乗った男は、幹部とは思えないほどの腰の低さでアールセキンに向かって挨拶をした。その態度には、ある種の敬意のような物も見て取れる。
「これは、ご丁寧に。私はリチャード・アールセキンと申します」
 アールセキンは、負けず劣らず慇懃な態度でステ―シーに向かって自己紹介をすると、彼の瞳をじっと見据えた。
 微笑むステ―シーと視線がぶつかり合う。
「さて、その『龍牙』の最高幹部ともあろう御方が、この私にいかなるご用件ですか?」
「聞かなくてもわかるでしょう?あなたとそちらのお嬢さんとの会話は、先ほどから全部効いていましたよ。私は、あなた方が我々の邪魔をなさらぬように、話し合いに来たんです」
「ほう、話し合い……。では、後ろの方々はなんですか?」
「ああ、彼らはもしもの時のために用意した保険です。気になさらないでください」
 あくまで穏やかな態度だが、その実ステ―シーには一切の隙がない。突き刺さるほどの警戒を周囲に放っている。
 アールセキンもそれに気づいているらしく、にこやかな笑みのまま殺気を放つ。
「では、私が『嫌だ』と言ったら、どうなさいますか?」
アールセキンが試すようにして、そんな質問を投げかけると、ステ―シーが口元に手を添えて、くすりと笑った。
 添えていた手を下げ、再びアールセキンの眼を見つめる。そして、ステ―シーはゆっくりと口を開いた。
「ならば、殺しあいましょう」
 そう言って片手を挙げ、潮風でかすかに湿った指先を鳴らす。
 パチンッという乾いた音が響き、それに反応して背後にいる男たちが一斉に動いた。
 ステ―シーは一跳びで10mほど後ろに下がると、男たち全員に伝わる大きな声で叫んだ。
「全部隊、一斉射撃!!!」
 ステ―シーの叫びに応じてあがったデータ解凍の声とともに、無数の魔法がアールセキンとレインの立っている船の舳先へと、一直線に向かって来た。
 それらの多くは着弾とともに凄まじい勢いで爆発し、船の舳先を爆炎で包み込んだ。
 炎で燃え盛る舳先に目をやり、ステ―シーは眩しさからすっと目を細めた。
「あっけないものですね」
「そうでしょうか?」
 ステ―シーの独り言にいきなり背後から返事があった。
 振り向きながら、背後に飛び退って間合いを取る。その首筋のギリギリのラインをアールセキンの手刀が通りすぎた。
「避けましたか」
 片手でレインを抱きかかえ、反対の手は前に突き出したまま、アールセキンは口惜しそうに舌打ちをする。
 だが、ステーシーが反撃に転じる前に意外なところからその一撃は放たれた。
アールセキンの胸の辺りにふわっと浮かび上がった光を放つ三つほどの球体。
「行けええ」
 レインの『零神』によって生み出された光。
 それが、彼女の叫びとともに尾を引きながら閃光がステーシーに襲いかかる。
「ちっ、書庫解凍『ゲート(鋼の門)』実行!!!」
 ステ―シーは慌てて魔法を解凍する。と、同時に彼の目の前にずっしりとした重量感をもつ鋼鉄製の大きな門が現れた。
 門はその口を開くと、レインの放った閃光を飲みこみ、ひとりでに閉じる。
「書庫解凍『テレポーテーション(瞬間転移)』実行」
 ステ―シーはさらに続けて魔法を実行、すばやくアールセキン達から遠ざかった。
 そして、それに入れ替わるようにして、先ほどから二人を遠巻きに取り囲んでいた『龍牙』のハッカー達が一斉に襲いかかってきた。
「レイン様、後方援護は任せましたよ」
 言うが早いか、アールセキンはハッカーの群れに飛び込んだ。
 前方から剣士風の男たちが3人ほど、めいめいに剣を構えて襲ってくる。どうやら、その背後にはまだ何十人もの敵がいる。
 アールセキンは彼らの動きを片目でちらりと確認すると、さらにリズムをあげた。
倍加した速度で、素早く剣士とその背後にいる敵の間に回りこみながら、すれ違いざまに手刀でそのうちの一人のわき腹を薙ぎ払う。
 男達の視点から見れば、回りこまれたと言うよりもむしろ掻き消えたと言った方が正確だ。
 アールセキンは残った二人に背後からの手刀を見舞うと、彼らに背を向けて次の敵を視界に捕らえる。
 音速をも超えたスピードで動くことが可能なアールセキンに反応できるプレイヤーなどほとんど存在しない。彼らはまだアールセキンの存在に気づく事さえできていない。
 アールセキンはかすかに笑うと、軽く片方の手をかざした。
「書庫解凍(ライブラリーオープン)『パウダーミスト(爆炎霧)』実行(ラン)」
 アールセキンの魔法により、周囲に魔法の火薬と硝煙の香りが立ち込める。アールセキンはすぐさま跳躍してパウダーミストの射程からは程遠いところに着地。
 くるりと振り向くと、やや離れたところで爆音とともに炎が舞い上がった。
 さらに隊列が崩れたハッカー達にレインの『零神』が襲う。
「あったれえぇ」
 閃光はやや湾曲しながら目標へと突き進み、その脛や、太腿を貫く。
『零神』で撃たれた者はデータその物を失うため、回復魔法でも再生する事はない。
 それに、もし回復魔法を受ける事ができたとしても、足をやられて身動きもできない彼らは アールセキンにとって格好の獲物だ。回復魔法を掛ける暇など与えずに、次々に止めを刺していく。
 流れ作業のような単調さで、目の前の敵を次々と打ち倒していく。
 アールセキンは手馴れた動きで傍らの男を掌で弾き飛ばすと、くるりと身体を反転させて別の相手に狙いを定める。
 と、背後から強烈な殺意がぶつけられた。
 アールセキンが慌てて身を屈めると、つい先ほどまで自分の頭があった空間を、風を切りながら何かが通りすぎていった。
 それは、アールセキンを追い越し、彼の目の前に立っていたハッカーの胸に突き刺さった。
 尾部に紅い布切れときわめて細い糸のような物を巻きつけられた銀色の輝きを放つ鋲。
 アールセキンが慌てて横に飛びながら反転すると、その後を追うようにさらに数本の刃が襲いかかってくる。
「かわすとは……さすがだな」
 みると、そこには全身を黒の装束で包んだ暗殺者風の男が立っていた。身体中に装飾として巻きつけられた革製のベルトにはいくつもの武器が差し込まれている。
 頭全体に、ちょうど覆面のように布が巻きつけてあるためにその顔つきは判別できないがが、顔を隠す覆面の隙間から覗く眼光だけが異様に鋭い。
「この私のスピードについてくる者がいるとは驚きですね」
 そう呟き、黒尽くめの男に背を向けるとアールセキンは全力の駆け出した。
 さすがにアールセキンの全力疾走にはついて来れないらしく、一瞬で二人の間に大きな距離が開く。だが、それでも他の敵達に比べればその動きは段違いに速い。
 アールセキンはハッカー達の群れから抜け出した。目の前、少しばかり距離を開けたところに海岸線が見える。
「高速の世界にあるのは、あなただけではありませんよ」
 そのアールセキンの前方から唐突に声がして、右脇からやたら目にうるさい印象のカラーリングをした男が立ちふさがった。
 アールセキンは殺気を感じ、いったんその場に立ち止まって目の前の男を観察する。
米軍顔負けの迷彩色。だが、そのデザインは明らかな神官服。
 そう、先ほど転移でアールセキンの攻撃から逃れ、敵の群れの中へ姿を隠したステーシーが再び彼の前に立っていた。
 完璧にはさまれた。
 微かに眉を寄せ、アールセキンは舌打ちをして立ち止まった。
「我々竜牙の幹部は全員、『覚醒』によってあなたと同等のスピードを得ているのですよ」
 ステーシーの口から漏れた『覚醒』と言う単語にアールセキンがほんの少しだけ反応した。
 その様子にステーシーがすっと目を細め、口元を緩める。
 それが彼の笑みの表情なのだろう。
「知っていますか?」
「ええ、あなた方が開発した中毒性のある能力強化剤でしたよね」
「ええ、ですがこれは与える快感こそ薄いものの、中毒性のほとんどないバージョンでして。おかげで、なんとかあなたとも対等に戦える」
「ステーシー殿、くだらないおしゃべりはこの程度にして、早く片付けましょう」
 言いながら、背後の暗殺者が音もなくアールセキンに襲いかかった。
 吸い寄せられるように首へと伸びる短剣をすんでのところでかわし、アールセキンはすぐさま飛翔。
 両足に目一杯力を加え、上空へと飛びあがる。
「どこに逃げたところで、この照影からは逃れられんぞ」
 アールセキンの背後の照影と名乗った男はそう言って、懐からナイフを引き抜き構えた。
 長い滞空を終えて、アールセキンが地に降り立つ瞬間、その無防備な一瞬を狙って照影が襲いかかる。
 脇腹を殴りつけるようにして、銀色に光る刀身を突き刺した。感触で、奥まで突き刺さった事を確認すると、照影はそのままナイフをねじる。
 傷口をさらに開かれたことによって、より深刻なダメージがアールセキンの身体に蓄積されていく。
 痛みをこらえて、手刀を繰り出す。だが、当然当たるはずはない。虚空を穿ち、バランスを崩したところに、再び照影の刃が踊る。
 腕の先端に刃が突き刺さり、そのまま一気に肩へと引き裂かれる。
 引き裂かれた腕がだらりと垂れ下がる。どうやら、今の一撃で腕の筋肉の大部分を破壊されたらしい。全くと言っていいほど、腕に力が入らない。
 既に照影は次の一撃を繰り出そうと、こちらに刃を向けている。
「書庫解凍(ライブラリーオープン)『クラウド キル』実行(ラン)」
 アールセキンの呼び声に答え、漆黒の瘴気が辺りを包み込んだ。
 術者以外は触れるだけで、ダメージを受けてしまうほどの猛毒の雲。それがアールセキンの姿を覆い隠す。こうなると照影もそう簡単には手が出せない。
 だが、その猛毒の雲をも意に介さぬかのように、濃厚に立ち込めるそれを引き裂いて、白銀の刃が踊り出した。
 その狙いはアールセキンの肩へと一直線に伸びている。
 アールセキンはその一撃を、上体を後ろに逸らしながら飛びのく事でかわす。
「逃がさん!!」
 照影が叫んだ。
 と同時に、照影の身体中から、無数の影の腕が飛び出した。その手は普通の人間の持つそれの2倍はあるくせに、腕の部分はやたら細いアンバランスな姿をしたそれらの腕は投網のように八方に伸びたかと思うと、グンッと角度を急激に変えて、アールセキンへと襲いかかる。襲いかかっているそれぞれの手には照影の装束にベルトで括り付けられていた武器が握られていた。
 腕達は逃げ場のないアールセキンに鋭いほどの速度で、諸々の刃を突きたてた。
苦痛からか、アールセキンの身体が大きくくの字に曲がり、ぐらりと揺れた。
口惜しそうに、歯軋りをするとアールセキンは素早くその場から走り去ろうとして、両足に力を加えた。
 重心が崩れ、アールセキンはその場に膝を付く。いくつもの攻撃を受け、傷ついたアールセキンの身体はすでに『high‐tension』による加速に耐え切れなくなっていた。
足が言う事を聞かない。これでは、ふらつきながら歩くので精一杯だ。
「終わりだな」
 目の前に照影が立ちふさがり、嘲るような視線でアールセキンを見つめる。顔を覆う布に隠れて見えないが、その口元には嘲笑が浮かんでいる事だろう。
 自らの太腿に括り付けられている短刀を引き抜くと、アールセキンの頭上に向けて、勢いよく振り下ろす。
 澄んだ音が響いた。
 アールセキンの放った手刀は振り下ろされる刃の一点を見事につき、すっぱりと叩き折っていた。
「残念でしたね」
 にやりと薄っぺらな笑みを浮かべると、アールセキンはまっすぐに伸ばされたその手で、照影の肩をぐっと掴んだ。
 その腕を軸にしてアールセキンの身体がふわりと浮く。
「落ちろおお!!」
 叫びながら、自分の頭上に向かって拳を突き上げる。当然、拳の先には研ぎ澄まされた鋭い爪がずらりと並んでいる。
 空中の無理な体勢で、それでもなおアールセキンは身体を捻ってそれをかわす。
「これで、終わりだ!!」
 照影の肩口から影の腕が飛びだし、アールセキンの手首をがっしりと掴んだ。身動きの取れないアールセキンを無数の刃が刺し貫いた。
 ぐらりとその体が崩れる。
 どさっと重たい音を立てて、アールセキンの身体が地面に崩れ落ちた。
 照影はアールセキンの襟首をぐっと掴むと、それを海の中へと投げこんだ。
「これで、後は小娘一人か。取るに足らん相手だが、これも仕事だ」
 ぼやきながら、レインがいるであろう後方に視線を移す。
 今まではアールセキンとの激しい戦いで気づいていなかったが、そっちの方ではさきほどから凄まじい爆発が繰り返し起こっていた。
 照影は眼をわずかに細めると、レインを囲んでいる部下どもの輪へと走り出す。
 その人だかりに数mまで近づいたとき、再び響くつんざくような轟音と爆発によって、目の前の人垣が割れた。
 崩れた人垣の向こうには、大きなポニーテールを揺らしている一人の少女が立っていた。
睨みつけるような視線を、こちらに向けている。
 舞い散る砂埃の向こうで、少し大きめのイヤリングが真紅の輝きを帯び始めた。
放たれた閃光は、照影の両脇を通りぬけその背後の地面を深く抉り取る。
「なんのつもりだ?」
 今の一撃は、明らかに狙いをはずしていた。侮られたと感じた照影の声は、わずかだが怒りの色彩を帯びている。
 レインはゆっくりとした足取りで照影の方へと歩みを進める。
 そして、真っ直ぐに照影を見つめ言った。
「何って、仇討ちよ」

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